昭和4545年12月13日 特別奉修委員会



 御理解「生きたくば信心、神徳を積みて長生きをせよ」とこう仰る( ? )今御祈念前に田中さんが、お届けを致しましたが、昨日ある事があって、あそこに人が集まられる事になってその宿を貸されてから、その後の事をお届けしておられましたが、「これがもし、あのう合楽で信心頂いておる以前の信心であったらどうだろうか。と思うてねもうとにかく有り難うなって、嬉しゅうなって」とこうお届けがありました。
 「もうほんとにあの田中さん、信心はそれですもんね、それが有り難いとですもんね」と内容は別として、そう言う風にしてお話したことでしたけどね。ほんとにあの、長年のこちらも信心しておられますけれども、ほんとに信心を分りたいと言うて、信心が分り出しての、合楽でのこちらの、自分の心の変わって行き具合がね、自分で嬉しいわけですね、それが自分が有り難い。
 だからほんとに、御理解55節の引用した、御理解でしたが、信心をしておれば、一年一年有難うなっていくちゅうのは、そんなことよってから話したことですね。それが段々積もり積もって、有り難うなって行く。ほ、もう間違いなしお徳を受けて行くうていく事が出来るんだと言うてね、まお話をした。私はほんとにあの、合楽で信心さして頂く人なら、人はね、そこが頂いていかなかったらもう値打はなかと思うね。
 信心が無かった時代、信心が段々分っていくんだけど、日に日にまたは一年一年、こう有り難うなっていきよる自分。信心なしよったけれども、もう信心を信じぬままだったら(?)、昨日のような場合、自分はどげな風に(まきかまれたじゃろか?)と思う事がね、もうこげん自分ながら美しかぐらいに思えるくらいにでけたと言う事が有り難い。それで、自分で嬉しゅうなっておられるわけなんですよね。
 まあ羽田野さんも昨日は(あちらの自分のお里のそのお父さんのさんのお立ち日だったので、昼のの御祈念に合わせてからちょっとお礼をさせて頂いた。なら丁度久留米の東さん所の、霊祭があります、いわゆる引き続いてございましたからね。それを知っておられるから「ほんとに昨日はまあお疲れでございました」とこう言うわけなんですけども、ところが私、御霊様のお祭りを仕えるたんびんにもう嬉しく有り難くならせて頂いて・・?疲れますもんね。
 例えばその言うならばですね、生きた電気を扱うようなものですよ。それももうゴム手袋かなんかはめちからね、あすこ誰でん扱いますたい。ところが私どもは、御霊様と相対した時にはね、生で扱うような物、ね。ですからもうそりゃ緊張が緩みますからね、そりゃ疲れますけれどもその後の御霊の喜び、神様の喜びをこれに感ずる時ね、もうほんとに取り次ぎ者冥利を私はいつも感ずると言って話すことですけれど。
 なるほどこう言う風にして私ども信心さして頂く者はね、生き生きた喜びをどんなに仕えておっても、事、神様と言うか心が向かえさえすればこういう生き生きとした喜びが頂けるんだから。こりゃあやっぱり、言うなら五十の寿命を頂いておる者が、七十にまで八十にまででも、生き延びられるはずだと思いますね、信心して徳を受けて長生きをせよと仰る事はね。そうですよ、これはどうだろうかもう沈滞した心と言うか。
 そのなんか血が何かきつい時に血が濁っておる様な状態だそうですが、それがね有り難い事になるともう新しい斬新な血に変わってしまう様な感じがしましょう?成程是はもうおかげ頂く筈だ、長生きする筈だと、ね。昨日のあの昨日のミニ御理解に佐田さんやら熊谷さんやらあの、もう本当にあなたがた見ると羨ましいっちゅうて他の方が言うておられましたが、もう言わば敬親会の、でもう七十幾つになられながらです。
 まあだ美登里会にでも参加しようかと言う様なね。しかも本当にこないだなんかは、ね、昨日、( ? )日に三回ものお参りをなさる。それこそもうほんと、いつも新しい血が心の中に体中に躍動しておるもんですから、元気になられる筈です。元気になられると言う事は、長生きのおかげを頂かれる筈だと私は思いました。ね、信心の有るもんと無いもんの違いはそこにあるようですね。
   どうぞ。